東京高等裁判所 平成6年(う)348号 判決 1994年7月20日
主文
原判決を破棄する。
被告人を懲役七年に処する。
原審における未決勾留日数中一二〇日を右刑に算入する。
押収してあるハンターナイフ一丁(当庁平成六年押第一三三号の1)を没収する。
理由
本件控訴の趣意は、被告人本人及び弁護人山川豊が提出した各控訴趣意書記載のとおりであり、これに対する答弁は、検察官山口一誠が提出した答弁書記載のとおりであるから、これらを引用する。
第一 弁護人の控訴趣意中事実誤認の論旨について
論旨は、要するに、原判決は、被告人が本件犯行直前に実弟甲(被害者)と掴み合いの喧嘩をし、その後、倒れ込んだところを他の弟(乙)に上から押さえ込むようにして体の上にのしかかられて、同人が甲に加勢し二人がかりで暴行を加えられるものと誤信し、本件犯行に及んだ旨の事実を認定し、本件につき誤想過剰防衛の成立を認めたが、(1)本件において被告人は、甲から突然胸を蹴飛ばされ、布団の上に尻餅をついて倒れて起き上がろうとした時、同人に飛びかかられて左腕やスエットパンツを掴まれ、さらに、制止に入った乙に上からおおいかぶさるようにして割って入られたものであって、被告人が甲と掴み合いの喧嘩をしたことはなく、(2)また、被告人は、甲の一方的な攻撃から自己の身体を防衛するため、やむを得ずナイフで甲の胸部を突き刺したのであって、本件については、誤想過剰防衛ではなく過剰防衛が成立する、したがって、原判決はこれらの点につき事実を誤認したものである、というのである。
そこで、所論と答弁にかんがみ原審記録を調査し、当審における事実取調べの結果をも加えて検討する。
一 原判決挙示の証拠に当審における事実取調べの結果を合わせると、本件犯行の状況は、概ね、以下のとおりであると認められる。
1 被告人は、四人の男兄弟の長男であるが、平成五年七月一三日午前一時過ぎ頃、自宅一階八畳の間で横臥中、前夜来同じ室内で飲酒しながらテレビを見ていた実弟甲(三男)が、聞こえよがしに被告人に嫌がらせを言っているのに対し、立ち上がって、早く寝るように言ったところ、逆に同人から食ってかかられたため、「何が気に食わないんだ。文句があるなら殺せ。」と言い返した。すると、同人は、立ち上がって被告人に近づき、いきなり右胸を足蹴りし、被告人は、後方に倒れ込んだ。
2 その後、立ち上がろうとした被告人に対し甲が掴みかかり、立ち上がった被告人と掴み合いとなった。物音を聞きつけて隣室から入ってきた末弟乙が引き離そうとしたが、両名は離れず、移動しながらさらに揉み合った末、押入れの前あたりで再度倒れ込んだ。
3 乙は、両名を仲裁するつもりで、倒れ込んでいる被告人を上から押さえつけたところ、その後方から甲が被告人のスエットパンツを脱がそうとして引っ張り、また、股間を殴打したりしたため、両名から共同して攻撃されるものと考えた被告人は、自己の身体を防衛すると共に、日頃の甲に対する恨みをも晴らすため、咄嗟に同人殺害の意を決し、上から押さえ付けられたまま、腹這いの姿勢で必死に押入れに近付き、襖を開けてその中の段ボール箱から、刃体の長さ約一四・五センチメートルのハンターナイフ(当庁平成六年押第一三三号の1)を取り出して鞘を払うや、後方に向きを変え、両膝を布団に付けた前かがみの姿勢で同人と正対し、峰を上にして右手に持った右ナイフで甲の胸を二、三回突き刺した。
4 被告人は、ナイフを持っている手で、自分を押さえつけている乙を払ってどかせ、右手首に切創を負った同人が父親に応援を求めるために立ち去った後、なおもしがみついてくる甲の胸部及び腹部を右手のナイフでさらに思い切り突き刺し、よってその頃同所において、同人を左右肺刺創に基づく失血により死亡させて殺害した。
所論は、前記のとおり、被告人は甲と掴み合いの喧嘩をしたことはない旨主張し、被告人も捜査段階(平成五年七月二〇日に行われたいわゆる再現実況見分)以来所論に沿う供述をしているが、物音に驚いて隣室から駆けつけ、前記のとおり両名を制止しようとした乙は、自分が八畳間に入った際、被告人と甲は立った状態で掴み合っており、自分が制止しようとしたがその場に倒れ込み、また立ち上がったと思う旨、捜査段階以来当審公判廷に至るまで一貫して明確な供述をしているのであり、同人がこのような状況につき見誤ったり、ことさら虚偽の供述をしているとは考え難い。右の点に加え、被告人も、捜査の初期の段階(平成五年七月一三日付け司法警察員調書、乙2号証)においては、甲と立ったまま取っ組み合いをしたことを認めており、検察官調書においては、立った状態で掴み合いをしていたと乙が言うのであれば、自分が押さえられる前にそのような状況があったのかもしれない旨供述していること等を合わせ考えると、その状態を喧嘩というのが適当であるかどうかは別として、一旦蹴り倒された被告人が立ち上がった後、甲と掴み合いを演じたこと自体は事実と認められる。したがって、これと同旨の事実を認定した原判決に事実の誤認はない。
また、弁護人は、当審弁論において、被告人が乙と甲に押さえ込まれた際、被告人は、甲により、サリドマイドの後遺症で関節が曲がらない左手の指を攻撃され、骨折の危険が切迫していた旨主張し、被告人も当審公判廷において、一回目に刺したのは、関節が伸び切っている指を掴まれて骨折するんじゃないかと思い苦し紛れに夢中で刺した旨、右主張に沿う供述をしている。そして、被告人の原審第二回公判廷における供述中にも、甲に左手の指を引っ張られ、これは危ないなと思った旨右供述と同旨と解し得る供述がある。しかし、被告人は、捜査段階においては、サリドマイドの後遺症で不自由な左手を甲に攻撃されたとか、痛くて骨折の危険を感じたなどという供述は全くしていない。被告人が、真実不自由な左手の指を甲に攻撃されて痛みと骨折の危険を感じ、これが甲を刺す直接の決定的な動機となったというのであれば、被告人が捜査段階においてこのことを全く供述しないということは考え難い。しかも、被告人は、原審第三回公判廷において、前回甲に左手を握られていたと言ったのは自分の勘違いで、握られていたのは右手であった旨、前記供述を変更している。したがって、この点については、被告人の原審における右変更後の供述の方が、原審における変更前の供述及び当審供述より信用性が高いと認められる。そうすると、被告人が甲を刺す直前に同人から左手の指を攻撃されたという弁護人の前記主張は、これを採用することができない。
二 ところで、原判決は、一部を除き、前記認定とほぼ同旨の事実関係を前提とした上で、乙から押さえ込まれた際、被告人が「同人(乙)が甲に加勢し二人がかりで暴行を加えられるものと誤信し」たと認定し、本件について誤想過剰防衛の成立を認めている。
しかしながら、前記のとおり、被告人は、甲から突然足蹴りを受けて倒された後、立ち上がろうとするところを掴みかかられ、その後、制止に入った乙に上から押さえ込まれた際には、甲からスエットパンツを脱がされそうになったり、股間を殴打されたりしたのであるから、右段階において、被告人に対する急迫不正の侵害は継続していたと認めるのが相当である。したがって、本件については、誤信した乙の侵害との関係で誤想過剰防衛が成立するに止まらず、甲の侵害との関係では過剰防衛が成立すると解される。そうすると、甲との関係においても被告人の行為を誤想過剰防衛と認め過剰防衛の成立を認めなかった原判決は、事実を誤認したものといわなければならない。もっとも、誤想過剰防衛が成立する場合にも過剰防衛の規定が類推適用され、任意的に刑の減軽をし得るのであるから、単に誤想過剰防衛の成立のみを認めた場合と過剰防衛の成立をも認めた場合とで、処断刑に変わりはないが、被告人の甲に対する攻撃が、現実に存在した同人の急迫不正の侵害に対してもされたのか、単に、右侵害が存在しないのに存在するものと誤信してされたに止まるのかは、本件の犯情にかなりの差異をもたらすと考えられるから、この点の事実誤認は、判決に影響を及ぼすことが明らかなものというべきである。
なお、検察官は、答弁書において、本件犯行は、いわゆる喧嘩闘争の一環としてされたものであって、本来防衛の観念を入れる余地がないから、過剰防衛はもちろん誤想過剰防衛すら成立しない旨主張している。確かに、本件犯行の背景事情として、被告人と甲の日頃の確執があったこと、当日の甲の攻撃も、被告人の同人に対する「何が気に食わないんだ。文句があるなら殺せ。」という言葉に触発されたものであり、被告人の右発言を一種の挑発とみる余地があること等は、概ね検察官の主張するとおりであると認められる。しかし、当日甲は、前夜午後九時頃から翌日午前一時過ぎ頃まで、途中被告人が一時外出していた時間を含めると延々四時間以上にわたって、被告人が寝室としている八畳間でテレビを見ながら酒を飲み、テレビの番組にかこつけて大声で被告人に対する嫌がらせを言い、翌日糖尿病の診察を受けに病院へ行く予定で早く就寝したいと思っていた被告人を苛立たせたことが明らかであり、前記の言葉は、同人の暴言に耐えきれなくなった被告人が咄嗟に発したものと認められられるから、これをことさらな挑発行為とみることには疑問がある。その上、その後の闘争においては、まず甲が被告人の胸を蹴飛ばして倒したばかりでなく、立ち上がろうとする被告人に掴みかかり、特に乙が制止に入った後においては、二人がかりで一方的に被告人を押さえつけた上、甲において、押さえつけている乙の後方から被告人のスエットパンツを脱がそうとし、股間を殴打したりしたのであって、その間、被告人が両名に対し更なる攻撃を有効に防止できるような反撃を加えたとの事情はこれを窺うに足りない。したがって、本件が、過剰防衛ないし誤想過剰防衛の観念を入れる余地のない喧嘩闘争の一環であるとする検察官の主張は、採用することができない。
そうすると、論旨(2)は理由があり、弁護人の控訴趣意中量刑不当の論旨及び被告人本人の控訴趣意(量刑不当の主張)について判断するまでもなく、原判決は破棄を免れない。
第二 破棄自判
そこで、刑訴法三九七条一項、三八二条により原判決を破棄した上、同法四〇〇条ただし書により、当審において直ちに、次のとおり自判する。
(罪となるべき事実)
原判決が認定した「罪となるべき事実」一一行目「右胸を蹴られ、」から一五行目「ものと誤信し、」までを、「右胸を蹴られて布団の上に倒された上、起き上がろうとしたところを上から掴みかかられ、一旦立ち上がって同人と掴み合ううちに、制止に入った乙を含めて揉み合いとなり、再び倒れ込んだところをすかさず乙に上から押さえ込むようにして体の上にのしかかられた上、その後方から甲にもスエットパンツを脱がされそうになったり、股間を殴打されたため、乙も甲に加勢して二人がかりで暴行を加えるものと誤信し、甲の攻撃と自らが誤信した乙の攻撃から」と、同一八行目から一九行目にかけての「ハンターナイフ(平成五年押第三五三号の1)」とあるのを「ハンターナイフ(当庁平成六年押第一三三号の1)とそれぞれ改めるほか、原判決が認定した「罪となるべき事実」と同一であるから、右のとおり訂正した上これを引用する。
(証拠の標目)<省略>
(法令の適用)
被告人の判示行為は、刑法一九九条に該当するところ、所定刑中有期懲役刑を選択し、所定刑期の範囲内で被告人を懲役七年に処し、同法二一条を適用して原審における未決勾留日数中一二〇日を右刑に算入し、押収してあるハンターナイフ一丁(当庁平成六年押第一三三号の1)は、判示殺人の用に供したもので犯人である被告人の所有に属するから、同法一九条一項二号、二項本文を適用してこれを没収し、原審及び当審における訴訟費用については、刑訴法一八一条一項ただし書を適用してこれを被告人に負担させないこととする。なお、所論は、原判決が、誤想過剰防衛の成立を認めながら、任意的減軽をしないと判示した点を論難するが、任意的減軽事由があっても、宣告刑が法定刑を下回る場合でなければ、法律上の減軽をしないということは、実務上ほぼ確立された取扱いであるから、原判決が、本件がそのような意味において、法律上の減軽をすべき場合に当たらないことを注意的に判示したことに何らの問題はない。
(量刑の理由)
本件は、判示の経緯で、実弟甲及び制止に入った実弟乙に押さえこまれた上、甲にスエットパンツを脱がされそうになったり、股間を殴打された被告人が、甲に攻撃されるだけでなく、制止に入った乙からも攻撃されるものと誤信し、甲の攻撃と自らが誤信した乙の攻撃から自己の身体を防衛すると共に、甲に対する日頃の恨みをも晴らそうと考え、押入れの中の段ボール箱から刃体の長さ約一四・五センチメートルのハンターナイフを取り出して、防衛に必要な限度を超え、確定的な殺意を持って右ナイフで甲の胸部等を数回突き刺し、よって、同人を左右肺刺創に基づく失血により死亡させて殺害したという事案である。
右のとおり、本件は、刃物を使用して行った兄弟間の殺人事犯であり、甲らに一方的に押しまくられていたとはいえ、素手で全裸の同人に対し、突然前記のような大型で鋭利なナイフで反撃し、確定的な殺意に基づく攻撃の末、同人の貴重な一命を失わせた被告人の刑責の重大さは、改めていうまでもないことである。
被告人の家族は、父親と男兄弟四名だけであるが、一家の生計は、主として、七〇代の半ばに達する年老いた父親と、七、八年前に脾臓摘出の手術を受け健康状態が万全でないのに健気に働いて家族を支えていた甲に依存する状態であったから、最大の働き手を失った一家の打撃は深刻であり、甲の無念さはもとより、実父を初めとする遺族の衝撃には測り知れないものがある。
次に本件犯行に至るまでの経緯は、概ね以下のとおりであったと認められる。被告人は、生まれつきサリドマイドの後遺症とみられる左手の障害を有し、思うように仕事ができなかったことから、このような身体に生みながら早期に適切な治療をしてくれなかった親を恨み、父親に対する反抗心からまともに仕事をする気持ちを失い、勝手に親の金を持ち出して競馬やパチンコに使ったりしただけでなく、親の自動車を無断で売り払ったり、高額のサラ金の借金を父親に肩代りさせたりし、さらには、新聞販売店に勤務していた当時、昭和五三年には業務上横領罪を、同五六年には詐欺罪をそれぞれ犯して警察に捕まったが、いずれも父親が被害弁償してくれたため、前者は起訴猶予処分に付され、後者は執行猶予の恩典を受けた。その上、被告人は、甲の保険証を使って勝手に五〇万円を借りるなどの行動にも出たため、甲を始めとする他の兄弟も被告人を憎み嫌うようになり、実父は遂に被告人を見限って、約一〇年前に勘当を申し渡した。そのため被告人は、やむなく家を出ることとなったが、相変わらずまともに働かず、その後も留守中に家に入り込んでは、甲や父親に怠け者呼ばわりされながら、金品を持ち出したり、甲に金をせびって生活をしていた。被告人は、持病の糖尿病が悪化して体がだるく、簡易宿泊所の生活に耐えられなくなったため、本件の約二月前から、再び家に帰って家族と生活するようになったが、被告人の帰宅を喜ばない甲や父親から「怠け者が帰って来た。」などと罵られ、嫌がらせをされながら、一人だけ自分専用の部屋もなく肩身の狭い思いをしていた。本件は、このような被告人と家族の軋轢の中で発生した事件である。
被告人が、生まれながらに左手の障害を持ち、近年は持病の糖尿病にも悩まされ、思うように働けなかったこと、このような被告人に対し、父親を始めとする家族の思いやりが必ずしも十分ではなかったこと、被告人に対する甲の当日の嫌がらせが、執拗で度の過ぎたものであり、本件犯行は、その挙げ句にされた甲の先制攻撃及びこれに引き続く攻撃等に対する反撃としてされたものであることなどは、被告人のため相当程度斟酌すべき事情であるといわなければならない。しかし、それにしても、被告人は、健全な右手と他の身体部分を使って働くことができたのに、前記のとおり、父親らを恨むばかりで真面目に働こうとせず、その挙げ句、家内の金品を持ち出したり、勤務先で不祥事を起こすなどして家族に散々の迷惑をかける始末で、被告人が家族から疎まれるようになった最大の原因は、被告人のこのような自分勝手な生活態度にあったといわなければならない。そして、被告人のかかる行動を前提とすると、家族が、糖尿病の悪化をいう被告人の訴えをまともに取り上げなかったことにも、必ずしも責められないものがある。このようにみてくると、本件犯行当日に至るまでの経過は、被告人に圧倒的に不利である。この点に加えて、前記のとおり、本件当日被告人には、甲の攻撃等から自己の身体を防衛しようという意思だけでなく、この機会に同人に対する日頃の恨みを晴らそうという気持ちもあったこと、本件犯行は、その態様が、素手で全裸の甲の胸部等を確定的な殺意に基づき鋭利なナイフで突き刺すというもので、その結果も甲を殺害するに至っており、全体として防衛の程度をはるかに超えていること等を合わせ考えると、前記の諸点のほか、現在では被告人も犯行を真剣に反省しており、被害者の冥福を祈ると共に今後の更生を誓っていること等被告人のため斟酌すべき情状を十分考慮に入れても、被告人を主文記載の懲役刑に処することは、やむを得ないところと考えられる。
よって、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 佐藤文哉 裁判官 木谷明 裁判官 金山薫)